同情はしてくれなくてもいいけれど孤独は孤独

ある程度、"恵まれた"者、顔だとか頭だとかを持っている者は、同情がされにくい、たとえ人との関わり方が上手でなかったり、倫理観が欠落していたり、世界が嫌いだったりしていることに苦しんでいたとしても、それを理解する人は少なく、だから結構辛いものがある、という思いを端折りすぎて言ったら伝わらなかった そりゃ、そうだ

喜劇を演じ切る

柄にもないことを考えたり言葉にしたりするのは疲れるな。いや、そもそも自分の柄ってなんなんだろう?そんなものは元々はなくて、この場面ではこの柄を演じればいい、というのを見つける作業をして実践するだけでいいって。それがかしこさでしょう。

秋になって涼しくなって気分はさわやかさんさんなのに、気持ちはほんのりグレーなのだ。なんでだろうな。季節のせいか。秋だなあ、

 

 

ダムに行きたい

明日に先送りするものがないと、もういいか、と思ってしまうことがあるもので、ちょっとずつやることを明日に見送るなどしてなんとか続いている、超絶俯瞰してみる自分と、超絶顔を近づけてあれこれ考える自分とでバランスがとれない、ダムに行きたい

会話はやばいよ

爆発的な何か、というものは、自分の理解できる範疇で会話をしているうちは感じることも、生み出すこともできないんだけど、全く自分とは考え方がちがうな、とか、根底がそもそもちがうかも、っていうことにふれたときにそういうのを感じてテンションが上がるんだと思う、今日はそれだった、創作物ぐらい夢見させろ、はいるけど、創作物でもそれを受け付けないようなこともあるんだ、とかとか 会話はやばいよ

ドンガラガッシャン

孤独やコンプレックスや暗い部分は誰にでもあるものだと思っているけど、持たざる者は実力をつけるために孤独であり続けなければならない、おまえにわかるか、っていうことを考える夜があってもいいんじゃないかと思う

違うものを見てきたもの

愛嬌の有無で、発出できる言語の量って違うんだな、とか、愛嬌の有無で、行動機会は規定されていくんだろうな、とか、くだらないことが思い浮かんでは消えていくのだけれど、

自分で打ち立てた原理原則以外は応用がきかないと思っているんだから、大人しくいまはやることをやるしかなくて

ただ自分が打ち立てた原理原則に従って生きて、その原理原則に沿わせる形で、息をする、というのがいちばん楽で合理的だなあとかさ、よくわかんないけど

ウーバーイーツは選択肢がたくさんあるから素晴らしいと思う人と、自分は何が食べたいのか考えるのが面倒だから毎日同じものを買っている、という人同士の会話は、途中から言葉じゃなくて記号の投げつけあいになっていく

これから増えていくんだろうな