ような気がする
あるいは自分の身体をスキャニングするタイプの坐禅とか
感情は自然現象、寂しさや痛みは乗り越えるものでなくて心象風景っていうのはどこで見たのか思い出せないけど今日知人と帰って会話したときにそうだなとなんかすごく思った
自分にとってただその時一緒にいた人とその人に湧いた感情は特別なものに感じるけれど、やがてただの事実として残っていく、特別は消える
自然現象だから
特別が消えることに傷ついても、それもまた自然現象だ
少なくとも時間が経つと痛まなくなる、忘れるから
人の原風景はもともとは違う、でも変わる、たまたま原風景が似ていた時、共通言語である寂しさ、や退屈、が重なった時、でも共振しない時、ある程度の年数を生きてきた人は、目的が別に同じでない人に特別な感情を抱き、一緒にいることを自然と選ぶんだろう、それは愛だと人は言う
それが消えると、一緒にいる必要は全く無い、あと、わかり合えるとか妄想、寂しさは共通で持っているものというだけで、ひとつひとつの形は違うんだから、それをわかろうとか存在で埋めようとかそれを愛にしようとすると崩れていく、自分の寂しさは、本当は自分にしかわからないし人といても寂しい
一緒にいて、幸せ、とか、わからない理由がすこし見えたような
消えてなくなってもそれはそれでいいか、呼び戻すのは困難だ、だってそれはそういうものだから、それは自然現象、一過性のものだった、川は埋まるわけがないけどそれでもまあいいかと思う